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母さんエノキについて

ひろしまのエノキ  「お母さんの木」のことは、児童文学者長崎源之助さん(故人)が「ひろしまのエノキ」という絵本にまとめています。
 「お母さんの木」は、広島市基町の広島城の近くにありました。 戦争当時、広島市基町付近には旧陸軍病院があり、その庭に立っていたのが、お母さんエノキです。 当時のエノキは、幹の周囲が2.5m、高さは15mほどあり、立派なエノキだったようです。
 1945(昭和20)年8月6日、 投下された原爆で、この病院も壊滅し、病院職員738名、収容患者約千人が犠牲になりました。(慰霊碑には職員の名前はありますが、患者さんの名は分かりません。) エノキは高さ4mのところから折れ、枯れて黒くなりました。また、爆心地の方に向いた幹はざっくりとえぐりとられ、大きな空洞ができていました。
 75年は草木も生えないと言われたヒロシマですが、1か月後には、がれきの中に咲く赤いカンナの花が記録されています。また、当時の人々のひたむきな努力により、一面の焼野原だった街も徐々に復興が進みました。
 エノキも折れた部分から枝をはり、葉を茂らせ、生き返りました。 でも、残念なことに原爆で傷ついたエノキの木のくぼみに、ごみや空き缶を投げ込む人が出てきたのです。
 このことに心を痛めたのが基町小学校6年生4人でした。ごみをとり、辺りを掃除して、エノキに水をやり始めました。まわりにひなぎくの種も蒔きました。
 この活動は次第に学級に広がり、1979(昭和54)年、基町小学校児童会全体の取組になりました。

原爆は罪のないエノキまで見苦しい姿にした。
今日まで本当によく生きてきた。
生命の力強さと尊さを知った。
かわいそうなエノキ。
基町に住む私たちは、この木を守っていく義務がある。
基町小学校児童会

 エノキには、このような看板が立てられ、町の人も活動に協力するようになって、ごみを投げ込むような人はいなくなりました。
 ところが、1980(昭和55)年10月14日の台風で、二またに分かれていた南側の太い枝が折れてしまい、さらに4年後、1984(昭和59)年8月22日、台風10号の強風でエノキは地上3mあたりでぽっきり折れてしまったのです。
 このままではエノキは枯れてしまうかもしれません。広島市は大阪から有名な木のお医者さんに来てもらうことにしました。山野さんという木のお医者さんは、根のまわりに柔らかい土を入れたり、若木を接ぎ木したり、防腐剤や栄養剤を注射したりしました。また、弱ったエノキを守るため、広島市に鉄の柵を作って根元を踏ませないようにすること、目の細かい金網をはって、強い直射日光と冷たい川風をさえぎるようにすることを注文しました。
 こうした努力の甲斐あって、1985(昭和60)年5月25日、幹から新しい芽が15も出たのです。関係者の喜びはひとしおだったことでしょう。 しかし、残念ながらエノキはだんだん弱っていき、1988(昭和63)年ついに芽吹くことはありませんでした。

福田安次さんの投稿記事

 児童文学者の長崎源之助さんが絵本「ひろしまのエノキ」を書くきっかけになったのは、被爆エノキの苗木を平和教育に関心のある学校に送り届ける活動 をしていた福田安次さんの 次のような新聞投稿記事だったそうです。

 苦闘しています「被爆エノキ」
 爆心地から北へ約1キロの所で原爆に遭ったエノキは、南側を半分以上えぐられた幹に、再び枝葉を茂らせ、無残な姿で戦後を生き続けています。しかし、4年前の8月の台風で根元から3メートルあまりを残して折れてしまいました。
 これまで世話を続けている、近くの広島市立基町小学校の児童の願いや市役所の係の方たちの努力と、修学旅行でエノキを見学に来られた方たちの祈りが通じ、「もう駄目か」と、あきらめかけていた翌年の5月末に、またまた根元と地上約1メートルの所に芽を吹き返しました。その翌年には、幹の最上部にも芽を出し、葉も出ましたが、この枝は今年の春には葉をつけずに枯死しました。
 最近では、地上1メートルの所から出ている2本の枝も一部の葉が枯れ始めましたが、虫がついていることがわかって駆除し、回復に向かっています。市役所も、暑い直射日光が当たらないように、黒いネットで日覆を作るなど、あらゆる手段を尽くして保護に一生懸命です。
 修学旅行のとき、被爆エノキに千羽づるをささげて下さったり、わざわざ寝屋川市から持って来た水をかけて下さった小学生や、高槻市や出雲市、福岡県などの児童の皆さんに、近況をお知らせするわけです。
 皆さんに代わって水をやり、清掃の世話を夏休み中も当番を決めて毎日続けている基町小学校の児童と、懸命に生きようとしている老被爆エノキに、ご声援を下さい。

 長崎さんは、1988(昭和63)年に福田さん、基町小学校を取材。 同年6月 「ひろしまのエノキ」を出版しました。 被爆後、関わる多くの人々の「支え」「つながり」で、困難を乗り越えたエノキは、台風で幹を折られ た後、黒い床柱のように立っていたといいます。そして、 その周りには実生で育ったエノキ二世の若木が5,6本。すでに50センチほどの大きさに成長していました。

1988年
とうとう芽吹かなかったエノキ
原爆に焼かれ
台風に枝を折られ
さらに幹を折られながらも
そのたびによみがえり
私たちを励ましてくれた
二世にみとられ 今は
土にかえっていく エノキ
黙っていても 生命の尊さ
平和の大切さを教えてくれた
ありがとう エノキ
力いっぱい生きたエノキのことを
いつまでも語り継いでいきます。
二世は私たちが守っていきます。
1996年 基町小学校児童会

エノキがあった場所は、今

 現在、被爆エノキが立っていた場所には、最期の姿を模したモニュメントがあり、経緯を記した 説明板が広島市によって作られています。 そして、モニュメントの傍ら、基町小学校からのメッセ―ジも添えられています。

 1988年、エノキはとうとう芽を吹かず、翌年1989年、残念ながら「枯死」していることが明らかになりました。
 そして、1993年11月、枯死したエノキはほぼ根株のみの姿になってしまったのです。
 私たちに、命と平和の尊さを身をもって教えてくれたエノキも、今は静かな眠りの中にあります。
 エノキは枯れてしまったけれど、枯死したエノキのそばには、二世の新しい命が育っていました。現在は、エノキ二世を校地内にも植樹し、その成長を見守っています。
 私たちは。先輩たちの活動と心を受け継ぎ、エノキの観察や清掃を続けています。また平和学習の日には、1年生は「ひろしまのエノキ」の学習をし、このエノキを見学します。
 これからも平和への願いを絶やさず、エノキが私たちに教えてくれたことを語り継いでいきたいと思います。

 被爆エノキ は 多くの人々に支えられながら生き、またその生き様を人々に返すことで「平和の大切さ」 や「いのちの尊さ」を教えてくれました。 こ のエノキから実生で育った二世は 全国に16本。平和といのちの バトン は、すでに 二世たちに渡されています。 そのうちの1本、「折り鶴が運んだ平和の木」 のある学校で、私たちができる こと。それは、もの言わぬ証言者「 被爆エノキ」自身のいのちのリレーと、それを守り、支え、つなぎ続けてきた人たちの思いを 「 知り・考え・広げる 」 ことではないかと思っています。 講堂の横にある 「折り鶴が運んだ平和の木」は、来年植樹から25年目の年を迎えます。 実生の三世たちの芽もたくさん出ています。